ピアノはじめて・・・
ピアノは兄が習っていたこともあり、3歳から始めました。
先生に褒められたり⚪︎をもらうことが嬉しくて、登園前帰宅後頑張って練習していました。
先生、大好きっ子でした。
幼稚園では卒園式の時に女子代表に選ばれ予行練習をしましたが、男子代表が背の高い私より低く本番では別の女子に変更され、その姿を見て涙したことを今でも覚えています。
小学生
低学年では楽しく練習していました。
相変わらず⚪︎をもらうのが嬉しくて。
中学年では友達と遊びたくて下校時間までずっと遊び、帰宅後の練習が億劫になっていました。
高学年になり5年生の時には⚪︎をもらうのが嬉しかった私はどこへやらという感じになり、両親が別の教室に行くことを提案。私もそれを受け入れ別教室に行くことに。
男の先生だったので、私はかなり拒否反応が出て大嫌いでしたが、少々のミスでも⚪︎をくれるのでなんとなく通っていました。
中学生
中学生ではバレー部に入りたかったのですが、親からバレーをするならピアノはやめなさい。
ピアノするならバレーは諦めなさいと言われ、悩んだ末ピアノをすると決めました。
その後は大嫌いな男の先生が大学へ行く道筋を作ってくださり、今となっては感謝しかありません。
中二でこの男の先生の友人である大学助教授に習いましたが、恐ろしいくらいのヒステリックでマンションの1階の奥の部屋でしたが、マンション入り口にまで響き渡る声で怒られ、怒られているいる私は怖すぎてその言葉は頭の上を通り過ぎているような感じで、レッスン終了後、何を注意されたのがほぼ覚えていない状況でした。
その先生からの紹介で中三の時に音大の教授に習うことになりました。
ヒステリックではないけれど、グサグサくる注意の数々、帰りの電車の中で涙が溢れることもありました。
でも家に帰り、母には「別に」と何事もなかったように返事をしていました。
高校生
高校では先生の指導にもついていくことができ、大学受験に向け頑張っていました。
修学旅行では委員になり張り切っていましたが、音大受験をする友人が1日弾かないとと3日遅れると
修学旅行は不参加。委員を張り切ってやっている私は複雑な思いでした。
また体育でもバレーボール実習の時は授業だからとこれまた超張り切ってやっていたのですが、友人は見学していました。
本当は音大附属高校を受験したかった私に先生は「普通の高校行きなさい。視野が狭くなるから、音高受験はしないように」と言われ、泣く泣く普通校へ行ったのですが私の高校生活はとても楽しかったです。普通高校で本当に良かったと思っています。
大学生
大学では大学に受かることが目標で頑張ってきたのですが合格したことで心の糸がぷつっと切れ、何を目指していけばいいのか迷子になりました。卒業するまで迷子が続き、自分で自分が嫌になり、親には本当に申し訳なく思っています。もったいない4年間でした。
1回生の時からピアノの先生のバイトはしていましたが、そればかりが優先されていたように思います。
社会人になって
在宅でのレッスン、出張レッスン、学生時代から続けていた個人経営のピアノ教室、ヤマハのチケット制レッスンの講師と毎日充実した日々を送っていました。
その間に友人と旅行したり、自由な時間を楽しんでいました。
26歳の時に父が脳梗塞に(重症になり看病を母と交代しながら仕事は続けました。
病院通いを続け、その時は若さもあり夢中でがんばれました。
車椅子生活の父、そして何より、背の高い私は結婚などできないと思っていました。
結婚して
幸い友人や周りの人たちがいろいろお話を持ってきてくださり、今の主人と結婚したのですが、「ピアノは仕事じゃないだからしんどいと言うな」と言われ、自分を全否定された気持ちになりましたが、話をしているうちに仕事と認めるようになり、その後は家事など手伝ってくれました。今もです。
子供ができて
主人の理解があり、上の子が3歳の時に私の両親と同居することになりました。
レッスンについては、母にも主人にも助けてもらいながら続けることができました。
子供は2人とも男の子。
誰かに「男の子は大きくなったら離れてしまう。
結婚すれば奥さん側へ行っちゃう。
だから子供のうちに親子で共有できる何かをしたらいい」と言われ、子供が選んだソフトボールの練習や試合にできる限りの応援に行き深く関わる事ができたと自負しています。
下の息子は大学まで野球を続けたのですが、もちろん応援し続けました。
40代も息子たちの野球応援に走り回り、何とも言えない母集団に悩まされ登校拒否のように行くのが嫌になりましたが、息子の為と応援し続けました。
上の子が中三の時に主人とぶつかり1年間口をきかない日々が続きました。
本当にどうしていいのかわからなかったのですが、息子の言うことに耳を傾け、同調してあげました。
高校生になって少し考えが変わったようで、今では息子の方が大人な感じです。
レッスンについては50歳位の時に口コミで広まり生徒数が増え、毎日レッスン漬けの日々でしたがとてもとても充実していました。
今ではその子たちも年々卒業していき、寂しい感じです。
自慢の生徒さん
何人か思い浮かぶ子はいますが、その中の1人Rくん。
音楽好きのご両親とも仲よくさせていただきました。
決してめっちゃ練習してくる生徒ではなかったですが笑、曲のイメージをつかんだり、1音1音に対する取り組み方や集中力は素晴らしいものがありました。
技術を競うクラシックのコンクールはハードルが高かったですが、表現力を発揮できるポピュラー曲のコンクールでは小学生、中学生、高校生、大学生と地区大会優勝し、全国大会では敢闘賞を受賞することができました。
賞が取れたことはとても嬉しかったですが、曲を作り上げていく過程の彼とのやり取りがとても楽しく、またそれができたことが印象に残っています。
思い出の生徒さん
まだ大学1回生の指導初心者の私のところへ来てくれたMちゃん。
一生懸命練習してきてくれるとってもお茶目な女の子。
少し注意をすると、頑張った練習を否定されたと思うのか、体をよじって悔しさを表していました。
レッスン以外ではお菓子を作ったからと持ってきてくれたり、わからないところがあると聞きに来ていました。
お母さまもとても熱心で私も精一杯指導がんばっていました。
そんな時、お父さまの転勤でアメリカに行くことに・・・帰国したのはMちゃんが高校生の時。
再会を喜びレッスンにも来てくれましたが、大学も就職も遠方となり、レッスンの継続は叶いませんでした。
結婚後も遠方のままですが、こちらに来た時には「先生~!」と顔を見せに来てくれます。